脚本を書くということ『4.これから編』

さて、突然、『4.これから編』と言われてもと思われるかも知れません。昨年のコピスの後、3回分まで掲載したのですが、秋の準備が始まってしまったので、途中で終わってしまっていたものの続きです。興味のある方は過去記事を読んでもらえればと思いますが、かなり病んでる時期のものなので、高校演劇を愛する方はスルーした方がいいと思われます。

脚本を書くということ『1.動機編』
脚本を書くということ『2.禁じ手編』
脚本を書くということ『3.書き方編』

こう言うことを踏まえて脚本を書くと、上演するたびに『高校演劇らしくない』とか『高校生が演じるべき作品じゃない』などとアンケートに書かれたり、言われたりすることが多々ありますが、高校生が演劇に取り組む以外に『高校演劇』の定義があるとすれば、それこそ高校生の表現を縛り付けることになります。

もちろん、高校生ならではの表現を期待する気持ちは理解できなくありませんが、ほとんどの部員が高校でしか演劇をしないことを考えれば、彼ら自身が今、憧れているような演劇表現に挑戦することだって、本来、自由に選択できなければならないと思います。

しかし、実際には部員達が頑張って演じているのに、『高校生らしさがない』など端からジャンルとしての『高校演劇』からはみ出したものを認めず、高校生に高校生以外は演じられないといった先入観に満ちた評価しか与えられない人があまりに多いと感じています。特に『高校演劇』への興味の強い人、コンクールに執着する人ほど、その傾向も強いように思います。そういう方々は高校生をある特定の演劇に押し込めようと必死なのでしょう。

僕自身は芸事に取り組むということは、批判されることは覚悟しなければならないと思っていますが、批判のための批判や否定のための批判に部員を付き合わせるのは忍びない。部員たちは批判のための批判などが始まると『あ〜 まただぁ〜』という感じになります。この3年ぐらいはアンケートや講評でそもそも『表現していないもの』が『表現されていない』と言われ、『表現しているもの』は『必要ない』と言われてきました。もし、部員たちがそれらを鵜呑みにしていたら、ウチの部活は深い迷走状態に陥っていたと思います。

ところが、どんなに上手な上演ができていても、コンクールのある部活動である以上はコンクールの評価が付いてこないと学校の中で評価されづらいのもまた事実。そう考えると色々と思うところがある訳です。

もう少し単純にいえば、色々な背景があるにせよ、『自分の書いた本が原因で部員の努力が評価されない』という現状は少し耐えがたいものがあるわけです。そう考えると、例えば世の演劇部の顧問で脚本を書く方々は、春は書かずに秋だけ書くという人が多いのですが、ここは逆に春だけ書いて、秋は既成を上演するとか、もしくは校外公演は全部既成にした方が良いのだろうかとか、一層のこと、書くのを止めるかとか、色々と考えてます。

なんだか、『高校演劇というのはとても窮屈な表現の世界なんだなぁ・・・』というのが、演劇部2校目、12年目を迎えた、ある演劇部顧問の感想です。どうしようかなぁ・・・

(・・・と思って迎えた秋。書き始めた時はこれで終わりの予定でしたが、『5.創作脚本賞編』に続きます・・・)

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