蝉が鳴き、夕日が差し込み、手紙を書く女性の姿が浮かび上がる。これだけでもグッと物語に引きこまれるのに、郵便配達夫の趣がさらにフェアリーテールの世界へと誘ってくれる鮮やかな演出。
幕開きの空気感の大切さに改めて気づかされます。
物語はタイトル・ロールの肉の食えないオオカミを巡る家族の話題が提示される形で進んでいきます。彼にあわせて野菜を一生懸命食べようとする彼女、オオカミらしく人間を襲おうとする兄たち、豪快ながらも家族思いな母など、魅力溢れるキャラクター達が舞台を彩る。楽しい序盤。
そして、そこに赤ずきんが現ることで肉の食えないオオカミの「食えなくなった理由」が提示される。ちなみに子オオカミがとても可愛かったのだけれど、その幸せの象徴を提示してから、一気に悲劇へと振る心憎いまでの展開。まんまと号泣(ToT) このねぇ、舞台上でその場面をしないのが素晴らしくて。
兄がその悲報を彼に伝える科白を聞きながら、きっと観ている人たちが、科白にオーバーラップするようにそれぞれのベストなアングルでその場面を思い浮かべていたに違いない。よく「観客の想像力を信じて」という人がいますが、信じるだけではダメで、グッと引き込んでするればこその到達点なのです。
それが中詰めですから、どれだけ骨太な話だということなのですが、終わりに向けては彼らの娘の話になるわけですが、ここからはそれぞれの思いが交錯しながら、クライマックスに進んでいくわけですが、この辺の重くなりすぎずに進めていくバランス感覚が心憎い。まぁ、基本ずっと泣いてましたけど(ToT)
ラストには最初の食事の場面で気になっていた手紙の複線が鮮やかに回収され、娘の科白から声がオーバーラップしてエンディング。振りかえってみればかなり人(というかオオカミ)が死んでいる物語なのですが、きちんと前向きな印象で終えているという鮮やかさ。観に来て良かったぁ、とツクヅク。
こう書いていると、オオカミの家族の物語のように伝わるかもしれません。しかし、それはもちろん表面的な話で、その家族の物語に覆われているものは現代社会に覆い被さる相互理解を困難にする様々な問題を凝縮して深く抉るような鋭さ。まさに現代のフェアリーテール。
今そこにある問題や課題について世に問う時、ありのままかのように切り抜くことも一つの表現だけれど、物語として昇華することにより、理解や共感が深まることがあります。物語でコーティングすることで、語る動機、聴く動機が生まれて、そこに込められたメッセージがより広く伝播していく。
最近はある事柄や訴えをダイレクトに表現することが増え、確かにその方が刺激的であるかもしれないのだけれど、改めて物語の持つ力やエンターテインされた作品の魅力、そこに風刺を効かせる喜劇作家の矜持に触れられる、そんな素敵な作品にまた出会うことができました。
もちろん、舞台装置は言うに及ばす。ほとんど暗転せず(1回だけだったかな)に流れるように物語を進めていくのに必要十分な舞台装置。圧倒的な存在感のあるオオカミの家、それが2つに開いて室内が見えるというギミックに作り込まれた装置。そして、照明・音響・スモークのタイミングまでお見事。
みやぎ総文の打合せの夜。螺子頭先生と研修会でたまたま隣り合わせになったところから始まったご縁。たぶん、螺子頭先生に出逢っていなければ、今のように色々気にせずに取り組んで来られなかっただろうと思うと、意外と演劇の神様には愛されているのかな(*^-^*)
素敵な作品、ありがとうございました。
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